玩具への関心

画像

最近、なぜか玩具への関心が強くなってきている。小さい時、家は貧しかったから親も玩具を買い与えることができなかったのだろう。だから、ビー球、独楽くらいしか手に入らなかった。あとは自然にあるものがすべて遊び道具になったような気がする。だから少年時代の遊びは必然創造的にならざるをえなかった。粗末な遊び道具ではあったが自らの手で作り上げたものであった。そいう体験が今日の自分に反映しているように感じられる。今日は本箱の一角に陳列してある独楽と竹とんぼを紹介したい。

この記事へのコメント

ねんねこ
2008年06月22日 11:01
 子どもの頃の遊びってなんであんなに夢中になったのかと思います。
 小学4年生のときに全校でゴムとびがはやりました。授業の終わるチャイムが待ち通しくて待ち遠しくて。廊下を走り抜けて外へ出て、だんだん難易度の上がる技に挑戦しました。
 
ねんねこ
2008年06月22日 11:01
 休みの日は友達の家に行って、近くの畑から捨ててある大根などを拾ってきては、ままごと遊びをしました。わらを並べて秘密の基地を作ったり、工事現場で使うコンクリートでできた配管などが並ぶ立ち入り禁止の場所におやつを持って入っては「ここに泊まれるかもね」などと盛り上がりました。
 本当は秘密でもなんでもなくて、まわりの大人からはしっかり見えていたのでしょうけども。大人からあれこれ言われず、自分たちだけで過ごす空間は心地いいものでした。時々、「そこは入っちゃだめなのよ」と注意してくるおばさんがいましたが、今思い返しても、楽しいひと時に水を差す、無粋な人だったと思ってしまいます。そんな優等生面してないで、一緒に遊んだら絶対楽しいのに。
 遊びに夢中で気が付くと一番星が光ってるなんてこともよくありました。お金も電力もなんにもいらない、ほしいものは自分たちで探す、楽しい時間だったなぁ。
morry
2008年06月22日 11:22
素敵な、子ども時代を回想してくださいました。子どもの冒険心、空想心、好奇心など、際限のない夢とロマンが広がる世界は神々しいまでに光輝く世界ですね。子どもの世界は大人への序奏とも言えますが、同時に、それだけで、完結した完璧な世界であるとも言えます。子どもの世界は非現実的な虚構の世界などと見てはいけない。大人の生きる世界とは全く異なる、ある意味、大人を凌駕した世界が、そこにはあるように思える。純粋で、希望に満ちていて、想像力を次々と展開する世界がある。それを参考にするような大人の姿勢があれば、子どもの世界には宝がいっぱい埋蔵されていることを発見し、大人の生き方に変革をもたらすように思えてならない。もちろん、子どもの世界に横たわる残酷性など、負の要素に気づかないでいるわけではない。

この記事へのトラックバック